長楽寺観音堂の本尊である千手観音菩薩立像は、高さ107cm、垂髻(髪をまとめた部分)上半部・脇手・金具類・両足先は後世に補われたものですが、本体部分は造立当初の姿を伝えています。現在は頭上十面、脇手左右各二十本・合掌手・捧鉢手を全て加えて四十四手の姿ですが、本来は頭上に十一面を配した四十二手の像に作られていたものと考えられます。
桂材による一木造で作られ古い技法を伝えるとともに、撫肩でやや細身の体躯、彫り出しの浅い衣のひだの表現などに穏やかさのある作風であることから12世紀の造立と考えられ、平安後期の貴重な仏像です。
現在でも地域の人々から「したの観音様」と親しまれ、深く信仰されています。
多宝寺の本尊である本像は、高さ41cm、桂材の一木造で彫出されています。
『会津旧事雑考』などによれば、多宝寺は安貞2年(1228)の創建。本像は製作技法、彫りの深い厳しい顔貌、うねるような衣のひだの表現などから南北朝時代の造立と考えられます。
材質や製作技法からこの地で造立されたものと考えられますが、作風や形式は中央(鎌倉)の流れを継いでいます。
護徳寺観音堂の向かって左脇壇に安置され、聖観音菩薩立像よりはやや小ぶりで高さが76.6cmです。構造もほぼ同様で両手首より先と両足先をそれぞれ別に付けるのみで、頭頂から頭体通して一木造で作られています。
目や口の彫り出しが浅く、おとなしい表情も聖観音菩薩立像に通じます。異なる点は衣のひだの表現が一切省略されているところで、より地方的な表現となっています。以上から、造立年代は室町時代でも聖観音菩薩立像よりはやや新しくなると考えられています。
護徳寺観音堂の向かって右脇壇に安置され、高さ82cmです。桂材により、頭の髪を束ねた部分から頭体を通して一木造で作られています。
顔の彫りは浅く、また身体や衣のひだの彫り出しも浅いといった点から、室町時代の造立と考えられています。
極楽寺境内の観音堂本尊と伝える本像は高さ120cm、がっちりと重量感に富んでいます。両腕の配置から考えると聖観音菩薩像ですが、如来の法衣をまとっています。これは鎌倉時代後半以降に鎌倉で流行する宋代美術の影響です。
桂材による一木造によっており、宋風の影響を受けつつも在地の力強さもうかがうことができることから、当地で作られたものと考えられます。
荒々しさの残る表情、重厚な体の造形、衣のひだの表現から、この像の造立年代は南北朝時代(十四世紀中ごろ)と考えられます。
三川地区石戸に伝承されている石戸獅子舞は、毎年お盆に三社神社の境内で舞われています。
この舞は、1人の舞い手がそれぞれ獅子頭をかぶり3匹の獅子が踊るもので、「1人立ち3匹獅子舞」と呼ばれる芸能に属し、「風流獅子」とも呼ばれています。
由来については、昔、この地に疫病が流行した際に悪魔退散を祈願して舞われたのが始まりとも、天保の頃に会津を訪ねた人が芸を習い、この地に持ち帰ったのが発端とも言われていますが、はっきりしません。伝承を重ねるにつれ元の型から変化したためか、県下にある獅子舞及び会津彼岸獅子舞とも異なり、素朴で特異な獅子舞です。
呼び笛に続き、笛と太鼓のリズムに合わせて3体の舞、雌獅子の舞、雄獅子の舞が奉納され、悪病退散・村内安全が祈願されます。
この獅子舞は、笛の吹き手が急逝したため、昭和34年から48年の間途絶えたことがありましたが、地元住民の熱意により復活を果たし、現在まで続いています。
江戸時代、日本橋を起点に主な街道に一里塚が設けられていきました。しかし、栄山地内を走る街道は谷川沿いで狭く、一里塚を築くことができなかった為に、一里石をこれに替えて立てました。
2個一対で、それぞれ高さ90cm、幅60cm、奥行50cm。「一リ石」の名とともに、享和元年(1801)の建立年が石に刻まれています。
国道49号の改良工事に伴い、現在地より下方の旧道にあったものを移転しました。(栄山の一り石)
狐の嫁入り屋敷から旧麒麟橋附近にかけての一帯は、川港となっていた所です。
江戸時代、津川は会津藩の西の玄関口でした。会津藩は物資を会津若松から津川までは会津街道で陸路輸送し、津川から新潟までは阿賀野川の水運を利用していました。つまり津川は水陸輸送の中継地であり、運上金や塩の専売による収益金が得られることから藩にとっては経済上重要な港でした。
会津からの廻米、会津塗、煙草、薪炭、木材などは津川で船積みして新潟へ運び、新潟からの塩、海産物、綿布などは陸揚げして会津に街道輸送しました。
船着場は「大船戸(大船場)」と呼ばれて150隻もの帆掛け船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持衆が100人も働いていました。その近辺には船番所、藩の米蔵、塩蔵、蝋蔵、物産問屋などが立ち並んでおり、活気に満ちたこうした状況から「日本三大河港」と称されていました。
明治になってからは三方道路が開削され、越後まで阿賀野川沿いに道路が開通しました。しかし物資の輸送には船のほうが効率的であったため、大船戸の90m下流に水量の増減に対応できる新しい「新河戸」が建設され、水運が活用されていました。
しかし鉄道の開通や自動車輸送の発達により衰退を余儀なくされ、さらに下流のダム建設により港としての機能を失いました。
江戸時代、会津街道は会津と越後を結ぶ幹線道路でした。会津若松から鳥居峠を越えて津川に至り、阿賀野川を渡り北に向かい、諏訪峠から行地、綱木、赤谷を経て新発田まで通じていました。
寛文年間(1661~1672)の会津藩による街道整備の際に、諏訪峠越えの坂道が全て石畳の道に改められました。今も角島集落から諏訪峠まで断続的に石畳路が残り、当時の街道の面影を残しています。道幅約2m、花崗岩の割石や自然石を敷き、急な坂道の箇所には石を階段状に敷いて道が崩れるのを防いでありました。
この街道は、江戸時代の新発田・村上両藩の殿様が参勤交代の際に通った道であることから、「殿様街道」という別名もあります。
文人墨客や庶民の利用も多かったと言われています。文化11年(1814)峠越えをした十返舎一九は「あいづよりゑちごしばたまでいたるかいどうのうち、このとうげほどたかくなんぎなるはなし」(『金の草鞋』)と記しています。
街道沿いの福取集落の入り口、柳新田から峠に至る途中、峠を北に下り行地に至る途中には、2個一対の一里塚が完全な形で保存されています。石畳の残る近世の街道と一里塚がセットで保存されているのは、県内では既にこの地域だけになってしまいました。
■福取と柳新田の一里塚
・ふくとりとやなぎしんでんのいちりづか
・町指定有形文化財 史跡2件
平成17年4月1日(2005年)
・所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町福取・京ノ瀬
江戸時代、慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に、旅程の目安となるとともに木陰で休息のとれる一里塚が設けられました。
会津街道の一里塚の設置は寛文7年(1667)から行われ、若松城下から一里ごとに道の両脇に一対築かれていきました。
福取の一里塚は、福取集落の東の入り口にあり、大きさが直径4m、高さ3m。現在は道路の勾配を緩くするため道路を掘り下げたので、切り通しの両側の杉林に囲まれて高く見えますが、塚自体は2個一対で当時のままの姿を残しています。
柳新田の一里塚は、柳新田集落から約1.5㎞登った旧会津街道の諏訪峠への道筋に2個一対で残されています。大きさは直径約2m、高さ約1.5m。昭和45年頃、東北電力の鉄塔やNTTのアンテナ建設のため自動車道路が開削されましたが、幸い一里塚を迂回することになり、昔のまま残されました。
県内には千対近くの一里塚があったと言われていますが、そのうちで原型を留めているのは8箇所。津川地区に2箇所と、三川地区に1箇所(行地)の計3箇所が町内には残されています。
■保科正興の塚
・ほしなまさおきのつか
・町指定有形文化財 史跡
平成17年4月1日(2005年)
・所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町
各行の頭尾をとると、「保科正興の塚」となります。
日出谷水沢の高松家の裏山は‘さすらいの丘’と呼ばれ、ここに会津藩家老保科正興の墓が立っています。
正興は藩の家老職に就きながらも政争に敗れて失脚し、貞享3年(1686)、三十八のとき水沢の地に配流され、許されることなく『家世実紀』では元禄3年(1690)、地元の言い伝えと墓石の刻印では元禄2年にこの地で没したと言われています。その時に建てられたと思われる旧墓石は十字に切断され、倒れたまま現在も地面に置かれており、政争のすさまじさを物語っています。
正興は村の子どもたちに読み書きを教え、干ばつのときには山に登って雨乞いをするなど、村人から「民部さま」と呼ばれ親しまれました。正興が謹慎した高松家に残る辞世の歌は、今もさすらいの丘に眠る正興の悲哀を伝えています。
正興は十五歳で元服し保科家を継ぐと、二十七歳のとき家老職となり、藩政において重きをなしました。しかし三十七歳のとき、突如家老職を解かれ国許会津に蟄居を命ぜられ、翌年には全知行を召し上げられるとともに罪人として日出谷・水沢の地に流刑となりました。
藩の重罪人となった理由としては、藩主・正之の侍妾で後に継室となった‘お万の方’、後の聖光院の専横を阻止できなかったことに起因すると考えられ、しかも正興の後妻が聖光院の姪であったために、正興はいわば聖光院の身代わりとなって処罰されたと言われています。
谷沢甌穴群は、揚川ダムの下流約500mの阿賀野川左岸にある530余りの甌穴です。
甌穴とは河床や河岸の岩石面にできるかめ状の穴のことです。
谷沢甌穴は凝灰岩からなる河岸段丘がこの地点で大きく蛇行する阿賀野川の急流によって浸食され、くぼみができたところに礫(小石)が入り、渦流によってその礫が回転して円形の穴が拡大したものです。
穴の大きさや深さは様々で、形も円形のほか水盤形や数珠玉形などがみられます。
※ダム放流区域のため、立ち入り禁止。
樹齢200年前後、標高わずか336mの低山地に自生する珍しいブナの天然林を主体に、ホオ・ミズナラ等が中腹付近から山頂にかけて自生しています。
また野生動物も豊富で鳥類60余、獣類10余、昆虫ではチョウ類が多く、20種類以上確認されています。
三川地区と、五泉市旧村松地区との境にある日本平山。その山頂まで谷沢から歩いて約4時間、途中3時間ほどのところに日本平大池はあります。
大池は標高865mに位置する高層湿原。周囲115m、深さ1.35mの池沼には大小数個の浮島が浮遊し、周辺には高山性の稀種が生息しています。
植生は浮島と湿地とでほぼ共通しており、アゼスゲやミヤマカンスゲ、アイバソウなどが多く生育しています。
水性昆虫で特筆されるのは、キイロマツモムシとメススジゲンゴロウの2種が同一の水域で混生している点で、他の産地には見られない現象であることから昆虫地理学上貴重な産地として注目されます。